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2015年12月7日月曜日

Andy Warhhol with The Silver Factory

前回に引き続きAndy Warholの60年代について書き進めていきたいと思います。

彼がアーティストとして活躍した中で最も重要となった場所
"The Silver Factory"について書こうと思います。




The Silver Factoryとは
シルクスクリーン作品に取り掛かり始めた1962年頃、自宅にて作品を作っていたようですが…
気が付けば自宅のいたるところにシルクスクリーン作品が溢れかえり、あらゆるものに
シルクスクリーン用のインクしみが付いている状態で身動きがとりにくい状態でした。

スタジオをそろそろ構えないと。と考えていたそんな時、友人のドン・シュレイダーの
紹介でNYの東87丁目の古い消防署の建物を知りました。
(その時、別の人物がNY市から1年100ドルで借りはしご車の会社をしていたが、交渉の
末、一部を又貸ししてもらうことになる)


これを機にこの物件にスタジオを構えることになります。
ちなみに"Factory"という名の由来は、作品を量産する場所。という意味も兼ねて
つけたそう。
(68年以降には別の場所にてWhite Factoryとして新しいスタジオを構える)


ビリー・ネームという現在は写真家として活躍するアーティストが Silver Factory制作
に尽力し、壁には銀色の塗料、窓からアルミホイルを垂らし、逆さまにして置かれた
ミラーボール。その中でも一際目立つ赤いカウチ。
この絶妙なカラーリングのバランスや奇抜なレイアウトが60年代らしく素敵だと
思います。w
ちなみに、エレベーターの壁面も銀色で覆われ、床には藁をひいていたようです。





このFactoryというスタジオ誕生から1965年頃までの3年間に実に多くの
シルクスクリーン作品が誕生します。



有名どころでいうと、30パターンのマリリン・モンロー



エルヴィス・プレスリー


などなどが初期のFactoryにて生み出されました。
1965年以降のアンディは、心境の変化や絵では稼げない。と判断し映像作品を作り始めます。
同年フランスでの展覧会を開いた際に新聞記者のインタビューを通し
”今は映画しか撮りたくない”と宣言。
それ以降の数年間は事実、映画作品が多く作られます。
ここも有名どころをピックアップするならば、”スクリーンテスト”と呼ばれる
カメラを三脚で固定し、その前にモデルを座らせて台本も無いまま撮影し続ける。
という作品で、このスクリーンテストは偶然性が盛り込まれており、誰かが電話で
喋る声等も入ってる作品があったように思います




静止画と動画の融合的な作品は他にもあり、エンパイア・ステート・ビルを4時間くらい
撮り続けた作品なんかもあります。
(この作品手法をサンプリングし、映像作品を作った日本人アーティストも
いるくらい有名な作品)

イットガールやチェルシーガール、フランケン・シュタイン。なんかもこの時期に
手がけています。
上記でも軽く触れましたがアンディはこの時、アートへの関心がなくなり
それよりも人に興味を抱き始めた結果がスクリーンテストや誰かを題材にした
ドキュメンタリー映画を作り出したキッカケだと本人も述べています。






Edie SedgwickとAndy Warhol

今回はAndy Warholに注目して記事を作ろうと思っていたのですが、やっぱり
イーディ抜きでアンディの60年代は語れないなと思ったのでここから軽くイーディについて
書こうと思います。


”65年1月ぼくは、イーディス・ミンタン・セジウィックと会った。(中略)
ぼくらを紹介してくれたのはレスター・パースキーだったけれど、どっちみち会う
はめになっていた(後略)”



イーディに出会う前にもアンディにはミューズとなる女性はいましたが
彼女に出会った瞬間に魅了され、アンディはイーディをミューズとして迎え入れることにします。

イーディの並外れた美貌と、コケティッシュな立ち居振る舞いにはゲイ、ヘトロ、同性
をも魅了し、誰もが彼女の虜に
(事実アンディも同性愛者ですが、イーディに対しては女性の中でも特別扱いだった
そう)


フランスの展覧会にもイーディを連れて行き、どこに行く時も共に行動していた
ようです。
映像作品の主役としての出演も多く、アンディの映像作品以外にもモデルとして活躍し
世界的に有名な人物となります。




細かい部分は省略しますが、アンディにとってイーディという女性は
生涯で唯一愛した女性だったのではないかと思います。
(映画Factory Girlはアンディとイーディの関係性が分かりやすい映画だと思いますので、
ご興味がある方はご覧になってみてください)



イーディとアンディの関係に関してトルーマン・カポーティの言葉が興味深いので
それをご紹介します。

”思うに、イーディはアンディになりたかった何者か、だったんだ。(中略)
アンディはイーディになりたかった。チャーミングで生まれのいいボストン社交界の
娘になりたかったんだ。アンディ・ウォーホル以外の誰かになりたかったんだ。”




60年代という時代とPop Artの関係性

60年代に作られた映画を見たことがある方なんかは、どういった時代だったか。
ってことは大体予測できると思いますが…w

当時のアメリカはスピード(LSD)が合法であったり、簡単に大麻や
アンフェタミン等のいわゆる非合法ドラッグが手軽に手に入り、有名女優なんかも
ダイエットの為に使用していた時代だったようです。

アンディ曰く、皆んな2日以上寝てないのが当たり前だったそうw


そんな自由な時代であり、抽象表現アートに飽き飽きしていたアーティスト陣が
立ち上がり(ここにドラッグが絡んでることは言うまでもないですが)そびえ立つ
抽象表現という壁に向かっていった結果が、ポップアートを誕生させた理由だと
思います。

つまり、時代がポップアートという新しいジャンルを作りだした。ってことです。

おそらく60年代という時代がまた違う時代背景であれば、ポップアートというジャンルは
存在しなかったと思います。(また違ったジャンルのアートが存在したかもしれませんが)


今現在当たり前のようにある物事は全て色んな必然が繋がって出来上がる。
ってことですね。

なんかスピリチュアルな感じになってしまいましたがw


Andy Warholが残したもの

数々の絵や映像作品を残したアンディですが、それ以外にも色んな活動を60年代に
行い名作を残しました。

その中でも代表的なものをふたつ紹介しようと思います。

62年イヴ・サンローランにフランスの高級紳士靴ブランド・ベルルッティ パリ本店に
連れて行かれます。
アンディを応対したのが4代目当主マダム・オルテガ。

この時にアンディと共にデザインし生まれたのがアンディという名のローファーです。
(マダム・オルテガが初めてビスポークを作ったのも確かアンディローファーだったと



思う)


もう一つが当時、Factoryに出入りしていたルーリードやジョン・ケイルをバンドとして
プロデュース。そこにニコというドイツ人女性をフューチャリング?加入で結成させた
のが、"THE VELVET UNDERGROUND and NICO"

ニコに関しては一作目だけしか参加しておらず、その後のニコはソロ活動をスタート。
二作目はルーリードとジョン・ケイルの対立したような楽曲が特徴的なアルバムと
なっており、その後ジョン・ケイルも脱退、ソロ活動を開始。
残されたVELVETは4作目まで発表し、ルーリードの脱退により解散。

このバンドもかなり時代に爪痕を残したバンドですね。




以前のブログでも書きましたが、アンディの言葉である”60年代は誰もが楽しんでいた”理由がなんとなく理解いただけたのではないでしょうかw


でも、いつの時代も時代背景や政治などとは、表現者は切っても切れない関係にある
のです。
それが、パワーとなって表現するエネルギーに変わる。
そして、時には時代をも変えてしますのです。

アンディ特集は60年代までで一旦締めくくろうと思います。

また機会が巡ってくれば70年代〜も書こうかなw

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