Translate

2016年8月5日金曜日

ジッパーというディテール

8月に入り、本格的な夏到来といった感じですが、皆さんは
いかがおすごしでしょうか。
今年の夏は特に何もする事なく終わりそうです…。

夏とは全く関係のないテーマで今回も更新していきます。
普段から誰もが自然と使っているジッパー(ファスナー)。
ジッパーブランドで現存している会社は約16社。
真っ先に思いつくジッパーブランドと言えば、"YKK"ではないでしょうか。

日本が誇るジッパーメーカーで世界シェアは約20%だとか…。
(ラグジュアリーブランドも使うほどの信頼されたジップブランドだからね。)



先ずは、ざっくりとジッパーの歴史から書いていきます。

ジッパーの歴史(超簡素Ver.)

ジッパーが誕生したのは、1891年のアメリカ。ホイットコム・ジャドソン(Whitcomb.L.Judson) という人物が、毎回靴ひもを結ぶのが面倒!!という理由から
開発したのがジッパー誕生のきっかけ。

その後、幾度か改良され、1905年にホイットコムさんが現在のジッパーの形を
完成させたそう。
そこからも改良に改良を重ね、1917年”ホックレスNo.4”が完成。
1926年Lee社が衣類で初めてジッパーを採用。
ボタン式の”101B”に加え”101Z”の誕生。(Bはボタンの略、Zはジッパーの略。)

1931年には、アメリカ軍が正式導入し、フライトジャケット”A-2”が誕生。

ちなみにLevi'sがジーンズにジッパーを取り入れたのは、1954年のこと。
”501ZXX"こちらは、Levi'sは西海岸がそれまでメインとして販売を行っていた
のですが、販売領域拡大の為に、Levi'sがジッパーモデルを導入。
この”501ZXX”を作るのにも相当な労力が掛かったそうです。
(ジーンズを洗った際に縮みが生じ、ジップ破損etc...)

デニムの細かいことを書き出すと長くなるので止めておきます笑

とまぁ…かなり簡素にまとめると、ジッパーの歴史はこんな感じです笑

古着を買ってた事がある人なら、一度は見たことがあるであろう"TARON"っていう
ジッパーブランド。
1910年頃から"HOOKLESS"社という名でジップ産業に参入。

1937年TARON社に社名変更
TARONのジッパーをいくつかご紹介します。

扇タイプ

社名変更直後から使われている通称”デコタロン”
スライダー部分にアールデコ調の刻印が入ることからこう呼ばれてます。
(初めて”デコタロン”って呼び名を聞いた若かりし頃は、似ても似つかない”おでこ”を
イメージしてしまいました…。)

バータイプ
30年代頃の古着だと、この型が一番見かけることが多いと思います。
(気のせいかちょっと薄い印象)

ベルタイプ
まんまですね。
開閉の際、持ち手の穴がちょっと痛いです。(個人的感想)

50年代〜 バータイプ

TARON社になってからリリースされていたバータイプより少し長くなっているのが特徴。
こちらは70年代頃まで採用。

60年代〜五角形タイプ

扇形の変化系。
シャツジャケットとかでよく見かける気がします。


五角形タイプ(大)

アールデコ調デザインが施され、存在感抜群。
レザーアイテムや、ウールアウターでよく見ます!

涙タロン

画像でもお分かりいただけるかと思いますが、レザーアイテムのポケット部分や
シャツジャケットのポケットによく見かけます。
ただ、壊れやすいらしく、紛失している場合も多々あり。

42タロン
60年代に正式採用された42タロン。ジッパーの性能も格段に上がり、壊れにくい
ジッパー。
60年代以降のパンツや、小物にもよく見かけます。


ジッパーと一言に言っても奥深すぎるのでVintageジッパーの中でもかなりメジャーな
ブランドをピックし代表的なものをご紹介しました。
(追求しだすと、間違いなくブログの終わりが見えない。)
他にも紹介すべきディテールがたくさん有りますが、それはジッパーに興味を抱いたら
ご自身で探してみてください。

それでは今日はこの辺で…



2016年7月21日木曜日

クロムハーツマガジンという本

一年の中で、どの靴を履くか…
これに頭を抱える季節"梅雨"が明けまして、ここから本格的な暑い夏が到来ですね。

暑かろうが寒かろうが、ブーツやドレスシューズを履くのは止めれません。
好きだから。
とりあえず…梅雨明けたことに一安心しております。

さてさて以前にも"CHROME HEARTS"の魅力の一部でもお伝えできたら。と
記事を書きまして。(その時の記事はこちら)今回はその第2弾?
最近やっとで手に入れたクロムハーツマガジンがすこぶる良かったので
クロムハーツが発行する” CHROME HEARTS MAGAZINE"のご紹介。

って言っても個人の感想文を超簡素に纏めた程度にしか書きませんが笑
(それより、実物を読んで!!って感じ!)

昨今、過剰な付録が付いたムック本を巷でよく見かけますが、
現在の”付録付きムック本”の先を行ってた。といっても過言ではないのでは。と思います。
というのも、過去にはLIVE CD、ポスターが付属。

Series 1 Vol.1は2000年12月?のようで、この号では主に写真と創始者であるリチャードとの
対談などが掲載されているよう。(これかなり気になる)

現在は、Series 2 Vol.7まで発行されており、現在の付録としてステッカー、ポスター、
クロムハーツのファクトリーで行われたLIVE DVDがついております。
(ちなみにSeries 2 Vol.7のLIVE DVDでは、ピストルズのギタリスト、スティーブ・ジョーンズにポール・クックやガンズの元ギタリスト、スラッシュ(再結成して戻ってるけど)
…とまぁ、豪華絢爛と言いますか、、VHSだったら擦り切れるまで見てしまう映像ですよ。

そのほかにも豪華アーティストとのジャムバンドで数々の名曲を歌ったライブ映像が30分強収録。

ご存知の通り、写真は全て、リチャードの奥様、”ローリー・リン・スタークさん”がご担当。
面白いしやろうぜ!!って空気が本のページをめくるたびに漂ってきて、、
もう…たまりません。。

はっきし言って捨てページ一切なし。穴が空いても見ていたい本。
いい紙使ってるしねー。ここまで感動した雑誌っていつぶりだろう…。
中学生の時に初めて見た”Street”、”fruit”以来か?

初めて手にした1冊目で度肝を抜かれました。バックナンバー買い漁ろうと思ってる次第です。


すごい個人的主観の強い紹介記事になりましたが、クロムハーツマガジンの魅力は伝わりましたでしょうか。
誰かに頼まれて書いてるワケでもないので好き勝手書いておりますが、いずれかの記事を読んで、その人や物に触れるキッカケになればな。と思い、書いております


クロムハーツマガジンはクロムハーツのあるべき姿、本来の魅力をショップ以外で(例えば自宅のベットルームでも)体感出来る唯一のツールではないでしょうか。


クロムハーツこそ”本物”のライフスタイルブランドだと思う。
あー…かっこよすぎっ!!!

2016年7月6日水曜日

90年代というカルチャー

人生の先輩方(主に30代後半くらいの方々かな?)がヴェトモンに懐かしさを抱くように、
ヴェトモンというブランドを見て、懐かしく感じた自分と同年代も少なくないと思う。

80年代後半に彗星の如く現れたアントワープ6。
そして88年にパリコレにて発表し、衝撃を与えたマルタンマルジェラ。

(マルタン・マルジェラの事には他の記事でも書いたので省きます。)

時を待たずして90年代に突入。
その後直ぐに、1973年から続いた安定成長期にピリオドを打つこととなり、不景気な時代へと突入した日本。

経済の流れと密接な関係にあるファッション。
時代を象徴するかのように”グランジファッション”やいわゆる”Vintage"古着の流行が盛んとなった時代。

そしてモードの世界では、”あくまでベーシック”をキーワードに。デザイナーの意思が全面に押し出されたデザイン(やりたいことをやる!)。
矛盾な言い回しですが、世界的に景気が傾き始めた時代に対するファッション業界からのアンチテーゼを意味していたのではないかと思います。

この反骨精神も相まってモードとストリートは親密な関係に

今のようにネットも普及していなければ、情報共有する方法などほぼ無かったあの時代であったからこそ自由であり”ストリート”というファッションをデザイナーは取り入れやすかったのではないでしょうか。

その代表とも言えるデザイナーは、”クリストファー・ネメス”、”ウォルター ヴァン ベイレンドンク”あたりでしょうか






そんな90年代は、最も影響を受けやすい小学生だった自分達の目に飛び込む世界は、常に色鮮やかでド派手、そして自由。まさに混沌とした世界。

先述にしたようなグランジファッションを始め、
ド派手なスニーカーに、ビッグシルエットのTシャツ、メッシュタンクのレイヤードをしたストリートファッション。
はたまた、ド派手なプリント(W&LTとか)のタイトなTシャツにタイトなデニム。
蛍光色のアクセサリーに厚底スニーカー。


幼心に残る記憶は、何もかもが自由で自己表現に富んだ時代。といった感じです。

マルタンはカート・コバーンに感化されて消費社会であるファッション業界に古着の再構築という技法を用い、一石を投じたのではないでしょうか!…多分。

今回の”ヴェトモン”というこれまた彗星の如く現れたブランドをみて
90年代を体感してきた人生の先輩達は懐かしく思い、その姿を幼少期に目の当たりにしてきたぼく達は懐かしさと、新鮮さに心躍り、90年代を知らない10代、20代前半の子達には、新鮮で煌びやかに見えているのではないでしょうか。

現在ではSNSの発達により情報の流れが早く、今回のヴェトモンが注目のキッカケとなったのも SNSでセレブ達が着用している写真を見た流行に敏感な人たちが我先による争奪戦が繰り広げられ、バレンシアガに無名デザイナー就任というビッグニュースが着火剤となり世間で注目の的に。
正直、パーカーが7万円代…高っ!!って真っ先に言ってしまいましたが…。
買える人が買えば良い。っていう感覚なんでしょうか…笑

でもやはり、デムナ・ヴァザリアの今後の活躍にはかなり期待してしまいます。(昔、Bernhardwillhermも同じくらいした気もする)

系統は全く違いますが、”アレッサンドロ・ミケーレ”(以前のブログサイトでミケーレについて書いてます)
この人の作る世界観はドツボに好きです。(特にこの16-17A/Wのスタイリング)
正統派トラッドでありながら、遊び心を忘れないスタイル…これ以上書き出すと長くなりそうなのでやめておきます。




そうそう。90年代の日本人のファッションスタイル一覧が見れる写真集が海外の出版社から出てます。(10年以上前に)
ストリートスタイルからシノラー、女子高生、ガングロギャルまで幅広いカルチャーが見れて面白いですよ。
あの時代を作ったといっても過言ではない新宿のCANDYなんかも載ってたような…

本の名前忘れたし、失くしてしまったので…思い出したらまたタイトル書きます。
(分厚いピンクの表紙)

すくないヒントですがご興味あれば是非。笑



2016年6月15日水曜日

孤高のブルースシンガー”浅川マキ”という女

”夜が明けたら一番早い汽車に乗るから
切符を一枚用意してちょうだい
私のために一枚でいいからさ
今夜でこの町ともさよならね
わりといい町だったけどね”

”夜が明けたら” 浅川マキ    


独特な渇いた声。一度聞くと離れない詩。  
もしかすると、自分と同年代の人たちは知らないかもしれない”アンダーグラウンドの女王”浅川マキ。

今回は、渋く男勝りな女性シンガーの浅川マキにフューチャーして書いていこうと思います。

アンダーグラウンドの女王”浅川マキ”

1942年1月27日石川県石川郡美川町という漁師町に生まれます。
5軒ほどしか家が無い小さな集落だった為、彼女が幼い頃は妹と共に”美空ひばり”を聞いて
育ったそう。(1948年、美空ひばりが11歳の時にレコードデビュー)

高校を卒業し、彼女は町役場に就職し、国民年金の窓口係を担当。

役場に勤めるもほどなく退職。夜行列車で東京へと向かいます。
その時、上京理由に言い残した言葉は、『法律を勉強する為』と言い残したそう

上京後、彼女は全国のキャバレーや米軍キャンプ、新宿の歌声喫茶『灯』でゴスペル、ブルース、ジャズなどを歌い生活し始める。

1967年、25歳の時に『東京挽歌』という曲でレコードデビューを果たすも、自身が歌いたかった世界とはあまりにもかけ離れており、レコードレーベルとの契約を破棄。
その後、”寺山修司”に見出され、新宿のアンダーグラウンド・シアター”蠍座”で初のワンマン公演を3日間に渡り催行。
口コミで徐々に知名度も上がっていき、
1968年7月、同氏プロデュースによる『夜が明けたら/かもめ』にて再デビュー。



学生運動や安保闘争が盛んだった70年代。時代が功を奏し”アングラの女王”は一躍有名になります。
その後も、勢力的にシンガー活動を続けるも、敬愛してやまなかった”ビリー・ホリデイ”や”美空ひばり”のように、どんな時でも自分の感情に引きつけて歌いこなすスタイル
では無く、『時代に合わせて呼吸をする積りはない』と主張し生涯の終るまでの40年間、自身の肌に合わない曲は歌わない姿勢を貫き通した。


『浅川マキ=アンダーグラウンド』といった世界観は自他ともに認めていますが、彼女は”アンダーグラウンド”といわゆる”アングラ”と混同してはいけない。と主張。

”アングラ”と”アンダーグラウンド”。言葉にしてしまうと同じように思われがちですが、彼女にとっては全くの別物。

アングラ=混沌としたもの
アンダーグラウンド=デカダンス

彼女の思うアンダーグラウンドとはこう言った事だったのではないでしょうか。

ステージでも煙草に火を灯し歌い続けた浅川マキ。
彼女の唄に対する信念は深く、海外のブルースを歌う時には一度、翻訳してもらい、その翻訳を自ら、気の向くままに、伝えたい気持ちそのままに。手を加え自身で
歌ったそうです。

その中でも代表的な一曲は、”それはスポットライトではない”ではないかと思います。

彼女が敬愛していたアーティストの一人、キャロル・キングの元夫、ジェリー・ゴーフィンの”It's Not The Spotlight"を和訳したもので、本来の歌詞はスポットライトのような瞳を持つ彼女と別れてしまった。でもまたいつかよりを戻したいという歌詞ですが、
浅川マキは、”輝いてたあの頃の光”器用に生きれない男の心情を歌っています。


松田優作や菅原文太、原田芳雄など不器用な男ばかりが彼女の周りにはいたそうです。
だからこそ”器用に生きれない男たち”の和訳歌詞が生まれたのではないでしょうか。


自身の信念を貫き通し生き抜く男も女も、何時どんな時代が来ても格好良さは変わらないのではないでしょうか。
彼女自身は2011年1月17日、3日間のワンマン公演の最終日目前にに心不全で亡くなってしまいましたが、浅川マキの名曲の数々は時代に流されず生き続けるのではないかと思います。


あの光そいつはあんたの目に…いつか輝いていたものさ
またおいらいつか感じるだろうか
あんたは何を知っているだろうか…
    
 ”それはスポットライトではない”

2016年6月5日日曜日

Bistenという旅に至福の時を与えてくれるトランクケース

前回は2週間ぶりの更新になってしまったので、今回は通常通りの週1更新で…笑


今回のテーマはLOUIS VUITTON

一言にルイ・ヴィトンと一言に言っても、1998年よりマーク・ジェイコブスによるレディトゥウェアラインの誕生。現在は、モード界を牽引する二人。
ニコラ・ゲスキエール(ウィメンズライン)キム・ジョーンズ(メンズライン)が担当し、モード界を賑わしています。

とまぁ、全てを紹介するとなると、なかなか大変なので今回はルイ・ヴィトン誕生のキッカケともなった。旅行用トランクにフューチャーしてなるべく簡素に書いていきます。笑


先ずは創始者について簡単に…


Louis Vuittonという男

創始者ルイ・ヴィトンが誕生したのは1821年のフランス。(日本だと江戸時代ですね)

木工製造を生業とする家庭にて、養母に育てられてたルイ・ヴィトンは、養母との折り合いが悪くなり、1835年、14歳の時に家を飛び出します。
行く先も無く放浪し続けていたルイ・ヴィトンは家を飛び出した2年後(1837年)に
パリにたどり着きます。

そして、辿り着いた地。パリにて家業であった木工製造の知識を活かし、レイティエ・アンバルール(荷造り用木箱製造兼荷造り職人)の見習いとして働き始めます。

1854年、彼が33歳の時に結婚と共に独立。世界初の旅行鞄専門店を開業。
馬車に適した丸いものが主流だった時代に、上積みできる平らなトランクを考案。
これが、BistenAlzerの誕生のキッカケとなります。




ざっくりと、ビステン、アルゼールの違いを説明すると…
ビステンは、アルゼールに比べ、少し厚さが薄めの作り
アルゼールの最大の特徴は、取り出し式の中トレーが付いていることです。

(写真はアルゼール)



話を戻しまして、当時トランクケースに用いられる事がおおかった豚革ではなく、
軽量で生地に防水加工を施したキャンバス地グリ・トリアノン・キャンバス、
レイエ・キャンバスを考案。
船旅が主流であった当時、計算されつくした頑丈な作り、防水加工施した
キャンバス地の為、海水がかかっても中の荷物が濡れない。といった点が評価され、大反響を呼びました。

その評判が功を来し、ヨーロッパ中の王族からのオーダーが殺到。この一件でルイ・ヴィトンの名声は一気に高まります。


グリ・トリアノン・キャンバス


レイエ・キャンバス


息子であり、2代目であるGEORGES VUITTON(ジョルジュ・ヴィトン)
により1888年ダミエ・キャンバスを発表。商標登録商品として世に放たれます。
(グリ・トリアノン・キャンバス、レイエ・キャンバスに 模倣商品が出回るようになったため生み出されと言われています。)

ちなみにダミエは、日本の市松模様をヒントに考案したそう。
市松模様とは…江戸時代の歌舞伎役者、初代佐野川一抹が”心中万年草”という舞台で白と紺の正方形を交互に配した袴にて登場。その後、人気を博し着物の柄として流行しました。

歌舞伎が主流であったこの時代、様々な着物の柄が歌舞伎からきているそうですよ。
(いつの時代も有名人が着ると流行るもんだなって関心します)

いつみても市松模様とは粋な柄。





話を戻しまして…1896年に模造品の横行が原因でダミエは姿を消します。
(1996年にモノグラム100周年を記念し、マーク・ジェイコブスにより限定復刻。その後、万を持して復活します。)
このダミエが姿を消して時を同じく、かの有名なモノグラムが誕生します。





モノグラム誕生の理由はすでにお分かりかと思いますが、模造品との戦いの末に生まれた模様。こちらも日本の家紋をヒントに作られたと言われています。
もちろんこの時代に今のようなプリント技術などはなく、職人が一つ一つ手書きで仕上げていたそう。

2代目であるジョルジュ・ヴィトンは1890年にはボワティエと呼ばれる真鍮で出来た箱に5枚の羽を組み込んだ、決してこじ開けるこの出来ない錠前を発明し特許も取得。





初代の考案した完璧なフォルムのトランクケース。

























2代目によるブランドの顔となる模様、そ顧客の荷物を絶対的に護る錠前の考案。

今もなお進化し続けるトランクケース。




ちなみにヴィトンのトランクケースには荷物の詰め方もあるそうで、それを実践すれば小さめのサイズのトランクケースでも1週間分の荷物をパッキングできるんだとか。


トランクケースのブランドとして誕生し、今日では日常に寄り添う鞄やウェアまでも発信しているルイ・ヴィトン
創始者もここまで大きくなるとは思っていなかったのでは?

時代に寄り添うものを生み出し、持つ人のことを考え作られているものとは永久不滅ではないでしょうか

価値のあるものは値段が高い。けど、それ価格以上の価値がそのものには詰まっている。
このことを忘れずに色々なものと向き合っていきたいものです。

  


   


2016年5月27日金曜日

Jhon Lobbという革靴

更新が大分遅れていましました…。
言い訳は…書くのがめんどくさいので飛ばします笑

さてさて、今回はまたです。
僕の中で世界最高峰のJHON LOBBです。

本国でビスポークして3〜5年は掛かると言われているJHON LOBBデス。


ため息がでるほどかっこいいJHON LOBBです。


妖美であり華やかなレッドソールといえばルブタン。


優しさに包まれたような山吹色(ほ黄色か)の箱といえばロブ




んーーーーー。本題に入ろう。



ジョン・ロブは1829年英国コーンウォール州の農家の家に生まれます。

ジョン・ロブが12歳の時、ロバから落ち足を骨折。その後の始末が甘かったために、生涯片足が不自由となります。
実家の農作業を手伝う事が困難となったジョン・ロブは、地元の靴職人に弟子入りする事を
決意。
ジョン・ロブと靴との相性がよほど良かったのか、たちまち師事していた親方に負けぬほどの
腕前を身につけ、地元でも有名な靴職人となります。


1851年、ジョン・ロブが21歳の時、世界初となる万博博覧会がロンドンのハイドパークで開催。
このイベントが開催されていた当時のイギリスは、産業資本主義の絶頂期であり、この博覧会を目の当たりにした青年ジョン・ロブは、世界に旅立ちたい。という目標を掲げます。

その後すぐに地元であるコーンウォールからイギリスの首都ロンドンを目指す事を決意。
その目的は、当時ロンドン一と言われていたセント・ジェイムズ街のシューメイカー”トマス”
弟子入りすることでした。

ロンドンに到着し、ジョン・ロブは、”トマス”のもとを訪れ、弟子入りを願うもあっさりと
断られます。
色々と考えた結果、当時ゴールド・ラッシュに沸いていたオーストラリアに渡り、人生の転換をはかります。

オーストラリアに渡ったジョン・ロブは靴作りにおいて絶対的な自信を持っていたので、
金鉱堀りの男たちに向けて屈強なブーツを作り始めます。
オーストラリアに渡り手がけていたブーツはたちまち大当たり!
靴の頑丈さはもちろん。頭の切れるジョン・ロブは、一風変わった細工をブーツに施します。

それは、”金魂を隠せるように中空化にしたヒール”でした。
この時代にこういった仕掛けが施されたブーツなど当然、他には無かったでしょう。
ジョン・ロブの秀才な発想に功をきたし1858年、シドニーにて”JHON LOBB"初となるショップをオープンさせます。

その後、ロンドンに戻った彼は、完成度の高い靴を作ることに没頭し、1862年長年研究して完成
した作品のいくつかを英国万国博覧会に飾ると何と金賞を受賞。


翌年の1863年に、当時の英国皇太子に万国博覧会にて金賞を受賞したブーツを献上。
そのブーツの品質の高さを認められ、王室御用達の靴職人へと任命。(ジョン・ロブが34歳の時)


1866年にロンドンのリージェントストリート296番地に第1号店を創設。
一流のブーツ職人の地位を築きあげたジョン・ロブの噂を聞きつけた上流階級の人々が
次々に訪れ、ビスポーク受注者が殺到。
その後1895年ジョン・ロブが66歳の時、ロンドンにて没しますが、ロンドンでの成功を収め、
2代目の”WILLIAM LOBB"により1902年にパリ第一号店を出店。より幅広く世界にその名を轟かすことができました。

ちなみに、JHON LOBBの中で、不朽の名作と言われているWILLIAMLOPEZを作ったのも、2代目ウィリアム・ロブが考案したモデルです。

ちなみに名作モデルWILLIAMは、元々ビスポークから誕生したモデルで、
当時の英国ウィンザー公(エドワード8世)が自身の誂え靴としてオリジナルモンク
ストラップをJHON LOBBにて依頼。当主であるウィリアム・ロブ自ら手掛ることに。
ウィンザー公の希望を基に、飛行士の靴をベースにサドル部分に2つのバックルを固定させるダブルモンクストラップスタイルを用いました。
このバックルは小ぶりでスマートなデザインとし完成させたの靴がウィリアム。

その後ダブルモンクは、これまでの常識を覆し、新たなるスタイルの靴として一気に
有名になったモデル。としての物語がある偉大なる靴です。




1950年に誕生したLOPEZ。
JHON LOBBの中でも一足は持っておきたいローファー。
他ブランドではどうしても無骨になりがちなモカ部分をJHON LOBBの職人達はシャープに仕上げ、上品な佇まいのローファーに仕上げてしまうのです。




1976年、ジョンロブはエルメスグループの傘下となり、ロンドンのビスポーク専門店John Lobb Ltd.だけは一族の手に残り、現在も独自に活動を続けています。
ちなみにエルメスは、消滅させてはならない。保護すべきである職人技術をエルメスグループに参入し、職人育成活動に励んでいるようです。)
それまで、限られた特権階級の人にしかビスポークを手がけていなかったようですが、1982年から既製靴を手掛け始めました。


では、なぜここまで綺麗な仕上げが出来るのか。
それは、創始者であるJHON LOBBが研究し、考案した190という工程から一足の靴が作られるからです。
現在では、機械の発達も進み効率よく生産ができる時代になりましたが、JHON LOBBでは、創業当時と変わらぬ製法、工程で職人さん達が手掛けているそうです。(ビスポークに関しては手作業で)


そして、顧客一人一人の足型は100年経過しても捨てられることがないといわれています。
いつの時代も顧客一人一人を大切にし、どれだけ便利な世の中になっても機械に頼らず
昔からの製法を守り続けている姿勢。これは本当にすごいと思います。

名声があるブランドであればあるほど、コストを下げて大量生産しリリース。その効果で会社の利益も上がる。という単純なシステムが現在の世間一般的な流れですが…
”JHON LOBB”はそういうことではない。質実剛健であり、顧客の満足を優先したものつくりをしている。
こういった姿勢のブランドは他にあるでしょうか?僕が思うに、指折り数えるほどしか無いのが事実だと思います。
材料費が上がる為に止むを得ず、販売価格上げるか、品質を下げて製法を変えてでも、今の販売価格を維持するのか。企業にとっては最大の悩みだと思います。

けれども品質を下げず、製法も変えず。販売価格は上がれど、納得のいく品を提供したい。そういった心意気や思い切りは本当にかっこいいと思います。(前々回の記事:CHROME HEARTS然り)



革靴ブランドで素敵なブランドは数あれど、これから先もこの職人魂が無くならない限り、JHON LOBBが革靴界の最高峰ではないかと。僕は思います。


2016年5月5日木曜日

ココ・シャネルという女性

Yves Saint-Laurent”というブランドの創始者であり、デザイナーでもある
イブ・サンローランは、「私が亡くなった時に、ブランドを終わらせて欲しい」という言葉を遺し、この世を去りました。
サンローランの死後、ファッション界に返り咲いた”エディ・スリマン”は、サンローランの言葉を受け継ぎ"Yves Saint-Laurent"の”Yves"を抜き
Saint Laurent Paris"という名で
伝統的なブランドという一面を持たせながら、新たなるブランドとしてのスタートを切りました。


デザイナーが変わればデザインも変わる。そんなの当たり前。と片付けがちですが、では、創始者がそれまで築きあげてきたブランドイメージ、ブランドコンセプトはどうなるのでしょう。

引き継ぎながらも、自分の色を出すデザイナーも居れば、全く新しい物にかえてしまうデザイナーもいる。

ここに正解などは無いとおもいます。

ただ一つ言えることは、
デザイナーが自身のブランドを離れ、別のデザイナーが受け継いだ時点で、そのブランドは別物である。ということです。


では、本題に入りまして。今回は、"CHANEL"の創始者であり、デザイナーである"COCO CHANEL"について書いていこうと思います。


現在のCHANELのプレタポルテ、オートクチュール共にデザイナーは、ご存知の方も多いかとおもいますが、”カール・ラガーフェルド”が務めています。
ココ・シャネルに代わり、CHANELを引き継いだカール。先ほど書いた引き継ぐデザイナー。と、新しいものにかえてしまうデザイナー。に当てはめると、二人の作品を並べてみると、どちらに当てはまるかは一目瞭然だとおもいます。

1960s CHANEL "COCO CHANEL"


 2010's CHANEL Karl Lagerfeld”

ココ・シャネルの編み出した伝統的な生地の使い方などは残し、デザインはカールの世界観で表現している。
正にブランドの色を引き継ぎながらも、自分の色を出すデザイナーではないかとおもいます。

先ず、簡単にCHANELというブランドが誕生するまでについて書こうとおもいます。


1883年8月19日にフランスはオーベルニュ地方ソーミュールに生まれる。
1895年シャネルが12歳の時に実母が病死、父親にも見捨てられ修道院へ。
17歳の時に修道院を出て、針子の仕事をこなす傍ら、ムーランの寄宿舎で妹と共に歌手を目指し始める。

オーディションを受けるも落選し続け、歌手という夢にピリオドを打ち、当時付き合いのあったエティエンヌ・バルサンという将校と共にパリ郊外へ。
エティエンヌと共に競馬観戦に行った際に、シャネルが目にした貴婦人たちの過度なデコレーションを施された帽子に驚愕を覚え、機能性のある帽子を自身で作り始める。

1908年マルゼルブ通りにアトリエを開設。その直後に、エティエンヌとは破局。

シャネルが26歳の時に出会ったイギリスの青年実業家として名高いアーサー・カペルとの交際がスタート。
ココ・シャネルが一生涯愛する人物となる。
アーサー助力のもと、1910年カンボン通り21番地に帽子店を開店
1913年、ドーヴィルに2号店を出店。

1915年、ジャージー素材のドレスを発表し、1916年には、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープンし、同年にアメリカの老舗ファッション雑誌”ハーパーズ・バザーにて初めてシャネルの服が掲載される

今でこそ主流であるジャージー素材ですが、当時は下着や軍服などの動きやすさを求められる衣類にしか使われていなかった素材です。
それまでの女性たちはコルセットでこれでもか。というほどにウエストをきつく締め上げ、ドレスを着て、社交界へ参加するのが当たり前だった時代です。
この時代の女性たちの常識であった無理をして綺麗に魅せるからの解放。
即ち、世の女性たちをコルセットから解放し、自然体の美を魅せるへとシャネルは導いた。ということです。

この点は、有名な話ですのでご存知の方も多いかとおもいますが、これを機にシャネルの作るドレスを着たいが為にダイエットをする女性が殺到したそうです。

この、ジャージー素材を使うきっかけになったのは、第一次世界大戦勃発により、素材の供給難から生まれたともシャネル自身は語っていますが、この時代にジャージー素材のドレスはかなり衝撃だったとおもいます。

それでは、ココ・シャネルとはどういう人物だったのでしょうか。
自身について語っていた本に基づいて簡単に書いていこうとおもいます。

ココ・シャネルという女性

”CHANELが誕生するまで”にも出てきた”アーサー・カペル”という人物。シャネルの生涯で最も重要人物であり、彼に出会っていなければ、シャネルは服とは違った方法で世に何かを放っていたかもしれません。(1919年、交通事故によりアーサーは死去。)
”彼からは色々なことを教わった”社交界のことや、世の中の流れ、そして、人を愛するという事がどういう事か。きっと彼から一番教わったのではないかと僕は思います。


その後、社交界での交友関係も手伝って、劇作家であるジャン・コクトーや画家のピカソ、作曲家のイーゴリー・ストランヴィスキーなどといった
そうそうたる面子との交流もあったそう。

シャネルは出不精で本を読む事を幼少期の頃から好み、人と会うのがあまり好きではなかったようで、家族のように接する事ができる、即ち気兼ねのない関係で付き合い出来る人としか過ごさなかったようです。

その反面、色恋はお好きだったようで、アーサー亡き後も、色々な男性とお付き合いを繰り返していたよう。
ただ、シャネルの87年という長い生涯で一度も結婚する事がなかったのも、アーサー・カペルという最愛の人物を亡くしたからではないでしょうか。

彼女の仕事に対する姿勢は、本当に尊敬の一言でしかないです。
”服が好きで作っているのでは無い。そして欲しい物の為に働いてるのでは無い。働くという事が好きだから服を作っているこの言葉が似合う人物はココ・シャネルを除いて果たしているでしょうか。

⚪︎⚪︎が好きだからやっている。こういう方は他にも多くいらっしゃると思います。
でも、働く事が好きだから。というのは全く別ではないでしょうか。

女性の自立を誰よりも目指し活動し、今では当たり前に見られる女性のスーツの原型とも言えるであろう「シャネル・スーツ」を作り、大戦時代という物資が手に入りにかった時代にもめげず、負けず知恵を絞り、新たなる生地使いを編み出したりと
ココ・シャネルの功績を挙げだすとキリがないです。


物で溢れ返り、何が良くて何が悪いのか混沌としているご時世。情報が飛び交い、流れの早い流行に踊らされるのではなく。自分の意思で、自分が思う良質な物を選ぶ。それこそ大事な事ではないでしょうか。




個人的な事なのですが、GW期間中に一日だけ休みがあったので、WESCOに行って参りました。(前回の記事にてWESCOを紹介しております)
こんな場所にあるの?!といった場所で、元々、醬油蔵?か何かの倉庫であったであろう場所を改装し、店舗兼アトリエとなった素敵な空間でした。
今回は、見積もりでお邪魔しまして…話している中でイメージも湧き、完成したので今夏オーダーすることを決意しました。 稼ぐぞー!!

そしてその後、僕の尊敬する人生の先輩で有り、友達である方が働くお店に久々にお邪魔させて頂き、(今すぐは買えないけど、来年くらいには買おう!!と終始悶々してたけど)やはり商品陳列はもちろん、什器や細かいディテールにも職人さんの力が宿っており、すこぶるヤル気を頂けました!
忙しい時にお邪魔しました!でも、おかげさまで言葉に言い表せない…。。何かの刺激を頂けました。ありがとうございます!


そして、今年初?かも?しれない?ON THE BOOKSさんへ。
一言で言えばTHE憩いの場です。やっぱり素敵な本ばかり置いております。丸一日いても飽きません。
店主の人柄が滲み出ている店内の温かい雰囲気。いつも色々とアドバイス頂けたり、教えてもらえたり…プライベートでもお世話になりまして、いつもありがとうございます。

改めて考えると、大阪に出てきて直ぐくらいからお付き合いして頂いてるお二人。
スゲーぶっ飛んでてかっこいいです。憧れます。
無論、他にもぶっ飛んだ方々が多いおかげで(良くも悪くも?)学ぶことが多いです。

もらうばかりでは無く、この良い連鎖を誰かに与えていかないとな!と思ったしだいです。

以上!

あっ。ブログの名前が仮名からやっとで変わりまして、Fougere(フランス語でシダになりました)
今後とも宜しくお願いします。