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2016年5月5日木曜日

ココ・シャネルという女性

Yves Saint-Laurent”というブランドの創始者であり、デザイナーでもある
イブ・サンローランは、「私が亡くなった時に、ブランドを終わらせて欲しい」という言葉を遺し、この世を去りました。
サンローランの死後、ファッション界に返り咲いた”エディ・スリマン”は、サンローランの言葉を受け継ぎ"Yves Saint-Laurent"の”Yves"を抜き
Saint Laurent Paris"という名で
伝統的なブランドという一面を持たせながら、新たなるブランドとしてのスタートを切りました。


デザイナーが変わればデザインも変わる。そんなの当たり前。と片付けがちですが、では、創始者がそれまで築きあげてきたブランドイメージ、ブランドコンセプトはどうなるのでしょう。

引き継ぎながらも、自分の色を出すデザイナーも居れば、全く新しい物にかえてしまうデザイナーもいる。

ここに正解などは無いとおもいます。

ただ一つ言えることは、
デザイナーが自身のブランドを離れ、別のデザイナーが受け継いだ時点で、そのブランドは別物である。ということです。


では、本題に入りまして。今回は、"CHANEL"の創始者であり、デザイナーである"COCO CHANEL"について書いていこうと思います。


現在のCHANELのプレタポルテ、オートクチュール共にデザイナーは、ご存知の方も多いかとおもいますが、”カール・ラガーフェルド”が務めています。
ココ・シャネルに代わり、CHANELを引き継いだカール。先ほど書いた引き継ぐデザイナー。と、新しいものにかえてしまうデザイナー。に当てはめると、二人の作品を並べてみると、どちらに当てはまるかは一目瞭然だとおもいます。

1960s CHANEL "COCO CHANEL"


 2010's CHANEL Karl Lagerfeld”

ココ・シャネルの編み出した伝統的な生地の使い方などは残し、デザインはカールの世界観で表現している。
正にブランドの色を引き継ぎながらも、自分の色を出すデザイナーではないかとおもいます。

先ず、簡単にCHANELというブランドが誕生するまでについて書こうとおもいます。


1883年8月19日にフランスはオーベルニュ地方ソーミュールに生まれる。
1895年シャネルが12歳の時に実母が病死、父親にも見捨てられ修道院へ。
17歳の時に修道院を出て、針子の仕事をこなす傍ら、ムーランの寄宿舎で妹と共に歌手を目指し始める。

オーディションを受けるも落選し続け、歌手という夢にピリオドを打ち、当時付き合いのあったエティエンヌ・バルサンという将校と共にパリ郊外へ。
エティエンヌと共に競馬観戦に行った際に、シャネルが目にした貴婦人たちの過度なデコレーションを施された帽子に驚愕を覚え、機能性のある帽子を自身で作り始める。

1908年マルゼルブ通りにアトリエを開設。その直後に、エティエンヌとは破局。

シャネルが26歳の時に出会ったイギリスの青年実業家として名高いアーサー・カペルとの交際がスタート。
ココ・シャネルが一生涯愛する人物となる。
アーサー助力のもと、1910年カンボン通り21番地に帽子店を開店
1913年、ドーヴィルに2号店を出店。

1915年、ジャージー素材のドレスを発表し、1916年には、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープンし、同年にアメリカの老舗ファッション雑誌”ハーパーズ・バザーにて初めてシャネルの服が掲載される

今でこそ主流であるジャージー素材ですが、当時は下着や軍服などの動きやすさを求められる衣類にしか使われていなかった素材です。
それまでの女性たちはコルセットでこれでもか。というほどにウエストをきつく締め上げ、ドレスを着て、社交界へ参加するのが当たり前だった時代です。
この時代の女性たちの常識であった無理をして綺麗に魅せるからの解放。
即ち、世の女性たちをコルセットから解放し、自然体の美を魅せるへとシャネルは導いた。ということです。

この点は、有名な話ですのでご存知の方も多いかとおもいますが、これを機にシャネルの作るドレスを着たいが為にダイエットをする女性が殺到したそうです。

この、ジャージー素材を使うきっかけになったのは、第一次世界大戦勃発により、素材の供給難から生まれたともシャネル自身は語っていますが、この時代にジャージー素材のドレスはかなり衝撃だったとおもいます。

それでは、ココ・シャネルとはどういう人物だったのでしょうか。
自身について語っていた本に基づいて簡単に書いていこうとおもいます。

ココ・シャネルという女性

”CHANELが誕生するまで”にも出てきた”アーサー・カペル”という人物。シャネルの生涯で最も重要人物であり、彼に出会っていなければ、シャネルは服とは違った方法で世に何かを放っていたかもしれません。(1919年、交通事故によりアーサーは死去。)
”彼からは色々なことを教わった”社交界のことや、世の中の流れ、そして、人を愛するという事がどういう事か。きっと彼から一番教わったのではないかと僕は思います。


その後、社交界での交友関係も手伝って、劇作家であるジャン・コクトーや画家のピカソ、作曲家のイーゴリー・ストランヴィスキーなどといった
そうそうたる面子との交流もあったそう。

シャネルは出不精で本を読む事を幼少期の頃から好み、人と会うのがあまり好きではなかったようで、家族のように接する事ができる、即ち気兼ねのない関係で付き合い出来る人としか過ごさなかったようです。

その反面、色恋はお好きだったようで、アーサー亡き後も、色々な男性とお付き合いを繰り返していたよう。
ただ、シャネルの87年という長い生涯で一度も結婚する事がなかったのも、アーサー・カペルという最愛の人物を亡くしたからではないでしょうか。

彼女の仕事に対する姿勢は、本当に尊敬の一言でしかないです。
”服が好きで作っているのでは無い。そして欲しい物の為に働いてるのでは無い。働くという事が好きだから服を作っているこの言葉が似合う人物はココ・シャネルを除いて果たしているでしょうか。

⚪︎⚪︎が好きだからやっている。こういう方は他にも多くいらっしゃると思います。
でも、働く事が好きだから。というのは全く別ではないでしょうか。

女性の自立を誰よりも目指し活動し、今では当たり前に見られる女性のスーツの原型とも言えるであろう「シャネル・スーツ」を作り、大戦時代という物資が手に入りにかった時代にもめげず、負けず知恵を絞り、新たなる生地使いを編み出したりと
ココ・シャネルの功績を挙げだすとキリがないです。


物で溢れ返り、何が良くて何が悪いのか混沌としているご時世。情報が飛び交い、流れの早い流行に踊らされるのではなく。自分の意思で、自分が思う良質な物を選ぶ。それこそ大事な事ではないでしょうか。




個人的な事なのですが、GW期間中に一日だけ休みがあったので、WESCOに行って参りました。(前回の記事にてWESCOを紹介しております)
こんな場所にあるの?!といった場所で、元々、醬油蔵?か何かの倉庫であったであろう場所を改装し、店舗兼アトリエとなった素敵な空間でした。
今回は、見積もりでお邪魔しまして…話している中でイメージも湧き、完成したので今夏オーダーすることを決意しました。 稼ぐぞー!!

そしてその後、僕の尊敬する人生の先輩で有り、友達である方が働くお店に久々にお邪魔させて頂き、(今すぐは買えないけど、来年くらいには買おう!!と終始悶々してたけど)やはり商品陳列はもちろん、什器や細かいディテールにも職人さんの力が宿っており、すこぶるヤル気を頂けました!
忙しい時にお邪魔しました!でも、おかげさまで言葉に言い表せない…。。何かの刺激を頂けました。ありがとうございます!


そして、今年初?かも?しれない?ON THE BOOKSさんへ。
一言で言えばTHE憩いの場です。やっぱり素敵な本ばかり置いております。丸一日いても飽きません。
店主の人柄が滲み出ている店内の温かい雰囲気。いつも色々とアドバイス頂けたり、教えてもらえたり…プライベートでもお世話になりまして、いつもありがとうございます。

改めて考えると、大阪に出てきて直ぐくらいからお付き合いして頂いてるお二人。
スゲーぶっ飛んでてかっこいいです。憧れます。
無論、他にもぶっ飛んだ方々が多いおかげで(良くも悪くも?)学ぶことが多いです。

もらうばかりでは無く、この良い連鎖を誰かに与えていかないとな!と思ったしだいです。

以上!

あっ。ブログの名前が仮名からやっとで変わりまして、Fougere(フランス語でシダになりました)
今後とも宜しくお願いします。


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