いつの時代にも"異端児"、凝り固まった世界を覆す人は存在します。
現代のArt業界で誰もが知ってるであろうアーティストで例えるならば、村上隆、KAWS、BANKSYなんかは間違いなく飽き飽きしたArtの世界に風穴を開け、それまでArtに関心が無かった人をも巻き込んだ仕掛け人ではないかと。
60年代を代表するアーティストであり、時代の寵児となしえた1人がアンディ・ウォーホルです。
60年代は誰もが自由で楽しんでいた。70年代は皆んな一緒になった。
時代は70年代に突入し、アンディが60年代を振り返り残した言葉で、かなり印象に残っている言葉です。
事実、60年代に彼が残した経歴は凄まじいもので、今回の60年代特集も
掘り下げるとなるとテーマ別に書かないと収まらないので、テーマ別に
すすめていこうと思います。
(アンディに纏わる登場人物が多いので細かい部分は割愛します。)
アンディ・ウォーホルとポップアート
”50年代までの抽象表現主義の時代を50年代も後半に差し掛かる頃には、
ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウンシュンバーグらが変革し始めていた。
ポップアートは内部を外に引っ張り出し、中に外部を押し込んだ”
上記はアンディの言葉で、これも過去を振り返り書かれた言葉となります。
60年代、アンディがアーティストとしての道を進むキッカケを作り、Artの指南役でもあった
エミール・ディ・アントニオ。
(映画関係やデパートでの装飾、大企業との仕事など、エミールが気に入った
アーティストには仕事を紹介する裏方的存在の人物)
50年代後半〜60年代初頭のアンディはエミールの紹介でデパートのウィンドーの
飾り付けの仕事をしながら、アメリカンコミックや広告を題材に絵を
手がけていました。
ある日、テッド・ケアリーというアンディの友達がレオ・キャステリ・ギャラリー
に出向いた際、アンディの手掛けるアメリカンコミックアートに似た作品を見つけました。
それがポップアートには欠かせないもう一人のアーティスト、ロイ・リキテンシュタインが手がけるスクリーントーンを使用した作品です
それまでアンディ自身はもちろん、その周りすらロイの作品も存在も知らなかったわけですから、
かなり驚いたと思います。
テッドはすぐさまアンディに電話をし、レオ・キャステリア・ギャラリーに再度アンディと出向くことに
この時アンディはロイの作品を見て、『なぜ自分はスクリーントーンを
使ったコミックアートを作らなかったのだろう。自分なら思いついたはずなのに』
と思い、それを機にコミックアートを描くのをやめたそうです。
このロイの作品と出会ったのがきっかけとなり、ギャラリーオーナーである
レオ・キャステリアと交友関係が生まれ、その後いろんな場面でレオに助けられたようです。
レオ・キャステリアと交友関係が生まれ、その後いろんな場面でレオに助けられたようです。
レオ・キャステリアという人物に出会った事もターニングポイントの一つですが、ロイ・リキテンシュタインの作品を見たのをキッカケにアッサリと題材を変えた事ではないかな?とも思います。
それまで自分が構築してきた物を捨て、新しい事へ挑戦する潔さ
これがアンディを成功へと導いたポイントの一つではないかと。(もちろん他にも理由は有りますが)
筆者の想像ですが、アンディはかなり柔軟性に富んだ人物だったと思います。
彼は、絵を描くときに周りの人に"自分は今、何を描けばいいか"と質問をよく問いかけてたそうです。
例をあげるならば
上記の質問を知人に問いかけ、何が好き?と聞かれ
"お金"とアンディ答えます。
じゃあ、お金をテーマに描いてみれば?と知人に告げられ、あのダラーマーク作品は産まれました。
(1962年6月4日の新聞の見出しを使用し、死と災難シリーズの第一号は作られたそうなのですが、その6年後の同じ日に"アーティスト撃たれる"の見出しが同じ第一面を飾ったそう)
ある時は、友人の
"みんな君を見たがっている。きみが有名なのは、きみのその容貌のせいでもあるんだ。そいつがみんなの想像力を刺激する"
と会話の中から最初の自画像を手掛ける事になり
"牛を描いてみれば?牛って素晴らしく放歌的で、美術史の中でも耐久性のあるイメージがある"
この辺りも例を挙げるとキリが無いのでこの辺で終わらせますが、人との付き合いを大切にし、そこから生まれる刺激をも大切にしていたのがよく分かりますね。
60sの前半は一旦これにて締めくくろうと思います。(あまりにも濃すぎて長くなりそう
なので…。)
この続きの記事は近日中に更新します。
なので…。)
この続きの記事は近日中に更新します。
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