”夜が明けたら一番早い汽車に乗るから
切符を一枚用意してちょうだい
私のために一枚でいいからさ
今夜でこの町ともさよならね
わりといい町だったけどね”
”夜が明けたら” 浅川マキ
独特な渇いた声。一度聞くと離れない詩。
もしかすると、自分と同年代の人たちは知らないかもしれない”アンダーグラウンドの女王”浅川マキ。
今回は、渋く男勝りな女性シンガーの浅川マキにフューチャーして書いていこうと思います。
アンダーグラウンドの女王”浅川マキ”
1942年1月27日石川県石川郡美川町という漁師町に生まれます。
5軒ほどしか家が無い小さな集落だった為、彼女が幼い頃は妹と共に”美空ひばり”を聞いて
育ったそう。(1948年、美空ひばりが11歳の時にレコードデビュー)
高校を卒業し、彼女は町役場に就職し、国民年金の窓口係を担当。
役場に勤めるもほどなく退職。夜行列車で東京へと向かいます。
その時、上京理由に言い残した言葉は、『法律を勉強する為』と言い残したそう
上京後、彼女は全国のキャバレーや米軍キャンプ、新宿の歌声喫茶『灯』でゴスペル、ブルース、ジャズなどを歌い生活し始める。
1967年、25歳の時に『東京挽歌』という曲でレコードデビューを果たすも、自身が歌いたかった世界とはあまりにもかけ離れており、レコードレーベルとの契約を破棄。
その後、”寺山修司”に見出され、新宿のアンダーグラウンド・シアター”蠍座”で初のワンマン公演を3日間に渡り催行。
口コミで徐々に知名度も上がっていき、
1968年7月、同氏プロデュースによる『夜が明けたら/かもめ』にて再デビュー。
学生運動や安保闘争が盛んだった70年代。時代が功を奏し”アングラの女王”は一躍有名になります。
その後も、勢力的にシンガー活動を続けるも、敬愛してやまなかった”ビリー・ホリデイ”や”美空ひばり”のように、どんな時でも自分の感情に引きつけて歌いこなすスタイル
では無く、『時代に合わせて呼吸をする積りはない』と主張し生涯の終るまでの40年間、自身の肌に合わない曲は歌わない姿勢を貫き通した。
『浅川マキ=アンダーグラウンド』といった世界観は自他ともに認めていますが、彼女は”アンダーグラウンド”といわゆる”アングラ”と混同してはいけない。と主張。
”アングラ”と”アンダーグラウンド”。言葉にしてしまうと同じように思われがちですが、彼女にとっては全くの別物。
アングラ=混沌としたもの
アンダーグラウンド=デカダンス
彼女の思うアンダーグラウンドとはこう言った事だったのではないでしょうか。
ステージでも煙草に火を灯し歌い続けた浅川マキ。
彼女の唄に対する信念は深く、海外のブルースを歌う時には一度、翻訳してもらい、その翻訳を自ら、気の向くままに、伝えたい気持ちそのままに。手を加え自身で
歌ったそうです。
その中でも代表的な一曲は、”それはスポットライトではない”ではないかと思います。
彼女が敬愛していたアーティストの一人、キャロル・キングの元夫、ジェリー・ゴーフィンの”It's Not The Spotlight"を和訳したもので、本来の歌詞はスポットライトのような瞳を持つ彼女と別れてしまった。でもまたいつかよりを戻したいという歌詞ですが、
浅川マキは、”輝いてたあの頃の光”器用に生きれない男の心情を歌っています。
松田優作や菅原文太、原田芳雄など不器用な男ばかりが彼女の周りにはいたそうです。
だからこそ”器用に生きれない男たち”の和訳歌詞が生まれたのではないでしょうか。
自身の信念を貫き通し生き抜く男も女も、何時どんな時代が来ても格好良さは変わらないのではないでしょうか。
彼女自身は2011年1月17日、3日間のワンマン公演の最終日目前にに心不全で亡くなってしまいましたが、浅川マキの名曲の数々は時代に流されず生き続けるのではないかと思います。
あの光そいつはあんたの目に…いつか輝いていたものさ
またおいらいつか感じるだろうか
あんたは何を知っているだろうか…
”それはスポットライトではない”