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2016年6月15日水曜日

孤高のブルースシンガー”浅川マキ”という女

”夜が明けたら一番早い汽車に乗るから
切符を一枚用意してちょうだい
私のために一枚でいいからさ
今夜でこの町ともさよならね
わりといい町だったけどね”

”夜が明けたら” 浅川マキ    


独特な渇いた声。一度聞くと離れない詩。  
もしかすると、自分と同年代の人たちは知らないかもしれない”アンダーグラウンドの女王”浅川マキ。

今回は、渋く男勝りな女性シンガーの浅川マキにフューチャーして書いていこうと思います。

アンダーグラウンドの女王”浅川マキ”

1942年1月27日石川県石川郡美川町という漁師町に生まれます。
5軒ほどしか家が無い小さな集落だった為、彼女が幼い頃は妹と共に”美空ひばり”を聞いて
育ったそう。(1948年、美空ひばりが11歳の時にレコードデビュー)

高校を卒業し、彼女は町役場に就職し、国民年金の窓口係を担当。

役場に勤めるもほどなく退職。夜行列車で東京へと向かいます。
その時、上京理由に言い残した言葉は、『法律を勉強する為』と言い残したそう

上京後、彼女は全国のキャバレーや米軍キャンプ、新宿の歌声喫茶『灯』でゴスペル、ブルース、ジャズなどを歌い生活し始める。

1967年、25歳の時に『東京挽歌』という曲でレコードデビューを果たすも、自身が歌いたかった世界とはあまりにもかけ離れており、レコードレーベルとの契約を破棄。
その後、”寺山修司”に見出され、新宿のアンダーグラウンド・シアター”蠍座”で初のワンマン公演を3日間に渡り催行。
口コミで徐々に知名度も上がっていき、
1968年7月、同氏プロデュースによる『夜が明けたら/かもめ』にて再デビュー。



学生運動や安保闘争が盛んだった70年代。時代が功を奏し”アングラの女王”は一躍有名になります。
その後も、勢力的にシンガー活動を続けるも、敬愛してやまなかった”ビリー・ホリデイ”や”美空ひばり”のように、どんな時でも自分の感情に引きつけて歌いこなすスタイル
では無く、『時代に合わせて呼吸をする積りはない』と主張し生涯の終るまでの40年間、自身の肌に合わない曲は歌わない姿勢を貫き通した。


『浅川マキ=アンダーグラウンド』といった世界観は自他ともに認めていますが、彼女は”アンダーグラウンド”といわゆる”アングラ”と混同してはいけない。と主張。

”アングラ”と”アンダーグラウンド”。言葉にしてしまうと同じように思われがちですが、彼女にとっては全くの別物。

アングラ=混沌としたもの
アンダーグラウンド=デカダンス

彼女の思うアンダーグラウンドとはこう言った事だったのではないでしょうか。

ステージでも煙草に火を灯し歌い続けた浅川マキ。
彼女の唄に対する信念は深く、海外のブルースを歌う時には一度、翻訳してもらい、その翻訳を自ら、気の向くままに、伝えたい気持ちそのままに。手を加え自身で
歌ったそうです。

その中でも代表的な一曲は、”それはスポットライトではない”ではないかと思います。

彼女が敬愛していたアーティストの一人、キャロル・キングの元夫、ジェリー・ゴーフィンの”It's Not The Spotlight"を和訳したもので、本来の歌詞はスポットライトのような瞳を持つ彼女と別れてしまった。でもまたいつかよりを戻したいという歌詞ですが、
浅川マキは、”輝いてたあの頃の光”器用に生きれない男の心情を歌っています。


松田優作や菅原文太、原田芳雄など不器用な男ばかりが彼女の周りにはいたそうです。
だからこそ”器用に生きれない男たち”の和訳歌詞が生まれたのではないでしょうか。


自身の信念を貫き通し生き抜く男も女も、何時どんな時代が来ても格好良さは変わらないのではないでしょうか。
彼女自身は2011年1月17日、3日間のワンマン公演の最終日目前にに心不全で亡くなってしまいましたが、浅川マキの名曲の数々は時代に流されず生き続けるのではないかと思います。


あの光そいつはあんたの目に…いつか輝いていたものさ
またおいらいつか感じるだろうか
あんたは何を知っているだろうか…
    
 ”それはスポットライトではない”

2016年6月5日日曜日

Bistenという旅に至福の時を与えてくれるトランクケース

前回は2週間ぶりの更新になってしまったので、今回は通常通りの週1更新で…笑


今回のテーマはLOUIS VUITTON

一言にルイ・ヴィトンと一言に言っても、1998年よりマーク・ジェイコブスによるレディトゥウェアラインの誕生。現在は、モード界を牽引する二人。
ニコラ・ゲスキエール(ウィメンズライン)キム・ジョーンズ(メンズライン)が担当し、モード界を賑わしています。

とまぁ、全てを紹介するとなると、なかなか大変なので今回はルイ・ヴィトン誕生のキッカケともなった。旅行用トランクにフューチャーしてなるべく簡素に書いていきます。笑


先ずは創始者について簡単に…


Louis Vuittonという男

創始者ルイ・ヴィトンが誕生したのは1821年のフランス。(日本だと江戸時代ですね)

木工製造を生業とする家庭にて、養母に育てられてたルイ・ヴィトンは、養母との折り合いが悪くなり、1835年、14歳の時に家を飛び出します。
行く先も無く放浪し続けていたルイ・ヴィトンは家を飛び出した2年後(1837年)に
パリにたどり着きます。

そして、辿り着いた地。パリにて家業であった木工製造の知識を活かし、レイティエ・アンバルール(荷造り用木箱製造兼荷造り職人)の見習いとして働き始めます。

1854年、彼が33歳の時に結婚と共に独立。世界初の旅行鞄専門店を開業。
馬車に適した丸いものが主流だった時代に、上積みできる平らなトランクを考案。
これが、BistenAlzerの誕生のキッカケとなります。




ざっくりと、ビステン、アルゼールの違いを説明すると…
ビステンは、アルゼールに比べ、少し厚さが薄めの作り
アルゼールの最大の特徴は、取り出し式の中トレーが付いていることです。

(写真はアルゼール)



話を戻しまして、当時トランクケースに用いられる事がおおかった豚革ではなく、
軽量で生地に防水加工を施したキャンバス地グリ・トリアノン・キャンバス、
レイエ・キャンバスを考案。
船旅が主流であった当時、計算されつくした頑丈な作り、防水加工施した
キャンバス地の為、海水がかかっても中の荷物が濡れない。といった点が評価され、大反響を呼びました。

その評判が功を来し、ヨーロッパ中の王族からのオーダーが殺到。この一件でルイ・ヴィトンの名声は一気に高まります。


グリ・トリアノン・キャンバス


レイエ・キャンバス


息子であり、2代目であるGEORGES VUITTON(ジョルジュ・ヴィトン)
により1888年ダミエ・キャンバスを発表。商標登録商品として世に放たれます。
(グリ・トリアノン・キャンバス、レイエ・キャンバスに 模倣商品が出回るようになったため生み出されと言われています。)

ちなみにダミエは、日本の市松模様をヒントに考案したそう。
市松模様とは…江戸時代の歌舞伎役者、初代佐野川一抹が”心中万年草”という舞台で白と紺の正方形を交互に配した袴にて登場。その後、人気を博し着物の柄として流行しました。

歌舞伎が主流であったこの時代、様々な着物の柄が歌舞伎からきているそうですよ。
(いつの時代も有名人が着ると流行るもんだなって関心します)

いつみても市松模様とは粋な柄。





話を戻しまして…1896年に模造品の横行が原因でダミエは姿を消します。
(1996年にモノグラム100周年を記念し、マーク・ジェイコブスにより限定復刻。その後、万を持して復活します。)
このダミエが姿を消して時を同じく、かの有名なモノグラムが誕生します。





モノグラム誕生の理由はすでにお分かりかと思いますが、模造品との戦いの末に生まれた模様。こちらも日本の家紋をヒントに作られたと言われています。
もちろんこの時代に今のようなプリント技術などはなく、職人が一つ一つ手書きで仕上げていたそう。

2代目であるジョルジュ・ヴィトンは1890年にはボワティエと呼ばれる真鍮で出来た箱に5枚の羽を組み込んだ、決してこじ開けるこの出来ない錠前を発明し特許も取得。





初代の考案した完璧なフォルムのトランクケース。

























2代目によるブランドの顔となる模様、そ顧客の荷物を絶対的に護る錠前の考案。

今もなお進化し続けるトランクケース。




ちなみにヴィトンのトランクケースには荷物の詰め方もあるそうで、それを実践すれば小さめのサイズのトランクケースでも1週間分の荷物をパッキングできるんだとか。


トランクケースのブランドとして誕生し、今日では日常に寄り添う鞄やウェアまでも発信しているルイ・ヴィトン
創始者もここまで大きくなるとは思っていなかったのでは?

時代に寄り添うものを生み出し、持つ人のことを考え作られているものとは永久不滅ではないでしょうか

価値のあるものは値段が高い。けど、それ価格以上の価値がそのものには詰まっている。
このことを忘れずに色々なものと向き合っていきたいものです。