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2016年5月27日金曜日

Jhon Lobbという革靴

更新が大分遅れていましました…。
言い訳は…書くのがめんどくさいので飛ばします笑

さてさて、今回はまたです。
僕の中で世界最高峰のJHON LOBBです。

本国でビスポークして3〜5年は掛かると言われているJHON LOBBデス。


ため息がでるほどかっこいいJHON LOBBです。


妖美であり華やかなレッドソールといえばルブタン。


優しさに包まれたような山吹色(ほ黄色か)の箱といえばロブ




んーーーーー。本題に入ろう。



ジョン・ロブは1829年英国コーンウォール州の農家の家に生まれます。

ジョン・ロブが12歳の時、ロバから落ち足を骨折。その後の始末が甘かったために、生涯片足が不自由となります。
実家の農作業を手伝う事が困難となったジョン・ロブは、地元の靴職人に弟子入りする事を
決意。
ジョン・ロブと靴との相性がよほど良かったのか、たちまち師事していた親方に負けぬほどの
腕前を身につけ、地元でも有名な靴職人となります。


1851年、ジョン・ロブが21歳の時、世界初となる万博博覧会がロンドンのハイドパークで開催。
このイベントが開催されていた当時のイギリスは、産業資本主義の絶頂期であり、この博覧会を目の当たりにした青年ジョン・ロブは、世界に旅立ちたい。という目標を掲げます。

その後すぐに地元であるコーンウォールからイギリスの首都ロンドンを目指す事を決意。
その目的は、当時ロンドン一と言われていたセント・ジェイムズ街のシューメイカー”トマス”
弟子入りすることでした。

ロンドンに到着し、ジョン・ロブは、”トマス”のもとを訪れ、弟子入りを願うもあっさりと
断られます。
色々と考えた結果、当時ゴールド・ラッシュに沸いていたオーストラリアに渡り、人生の転換をはかります。

オーストラリアに渡ったジョン・ロブは靴作りにおいて絶対的な自信を持っていたので、
金鉱堀りの男たちに向けて屈強なブーツを作り始めます。
オーストラリアに渡り手がけていたブーツはたちまち大当たり!
靴の頑丈さはもちろん。頭の切れるジョン・ロブは、一風変わった細工をブーツに施します。

それは、”金魂を隠せるように中空化にしたヒール”でした。
この時代にこういった仕掛けが施されたブーツなど当然、他には無かったでしょう。
ジョン・ロブの秀才な発想に功をきたし1858年、シドニーにて”JHON LOBB"初となるショップをオープンさせます。

その後、ロンドンに戻った彼は、完成度の高い靴を作ることに没頭し、1862年長年研究して完成
した作品のいくつかを英国万国博覧会に飾ると何と金賞を受賞。


翌年の1863年に、当時の英国皇太子に万国博覧会にて金賞を受賞したブーツを献上。
そのブーツの品質の高さを認められ、王室御用達の靴職人へと任命。(ジョン・ロブが34歳の時)


1866年にロンドンのリージェントストリート296番地に第1号店を創設。
一流のブーツ職人の地位を築きあげたジョン・ロブの噂を聞きつけた上流階級の人々が
次々に訪れ、ビスポーク受注者が殺到。
その後1895年ジョン・ロブが66歳の時、ロンドンにて没しますが、ロンドンでの成功を収め、
2代目の”WILLIAM LOBB"により1902年にパリ第一号店を出店。より幅広く世界にその名を轟かすことができました。

ちなみに、JHON LOBBの中で、不朽の名作と言われているWILLIAMLOPEZを作ったのも、2代目ウィリアム・ロブが考案したモデルです。

ちなみに名作モデルWILLIAMは、元々ビスポークから誕生したモデルで、
当時の英国ウィンザー公(エドワード8世)が自身の誂え靴としてオリジナルモンク
ストラップをJHON LOBBにて依頼。当主であるウィリアム・ロブ自ら手掛ることに。
ウィンザー公の希望を基に、飛行士の靴をベースにサドル部分に2つのバックルを固定させるダブルモンクストラップスタイルを用いました。
このバックルは小ぶりでスマートなデザインとし完成させたの靴がウィリアム。

その後ダブルモンクは、これまでの常識を覆し、新たなるスタイルの靴として一気に
有名になったモデル。としての物語がある偉大なる靴です。




1950年に誕生したLOPEZ。
JHON LOBBの中でも一足は持っておきたいローファー。
他ブランドではどうしても無骨になりがちなモカ部分をJHON LOBBの職人達はシャープに仕上げ、上品な佇まいのローファーに仕上げてしまうのです。




1976年、ジョンロブはエルメスグループの傘下となり、ロンドンのビスポーク専門店John Lobb Ltd.だけは一族の手に残り、現在も独自に活動を続けています。
ちなみにエルメスは、消滅させてはならない。保護すべきである職人技術をエルメスグループに参入し、職人育成活動に励んでいるようです。)
それまで、限られた特権階級の人にしかビスポークを手がけていなかったようですが、1982年から既製靴を手掛け始めました。


では、なぜここまで綺麗な仕上げが出来るのか。
それは、創始者であるJHON LOBBが研究し、考案した190という工程から一足の靴が作られるからです。
現在では、機械の発達も進み効率よく生産ができる時代になりましたが、JHON LOBBでは、創業当時と変わらぬ製法、工程で職人さん達が手掛けているそうです。(ビスポークに関しては手作業で)


そして、顧客一人一人の足型は100年経過しても捨てられることがないといわれています。
いつの時代も顧客一人一人を大切にし、どれだけ便利な世の中になっても機械に頼らず
昔からの製法を守り続けている姿勢。これは本当にすごいと思います。

名声があるブランドであればあるほど、コストを下げて大量生産しリリース。その効果で会社の利益も上がる。という単純なシステムが現在の世間一般的な流れですが…
”JHON LOBB”はそういうことではない。質実剛健であり、顧客の満足を優先したものつくりをしている。
こういった姿勢のブランドは他にあるでしょうか?僕が思うに、指折り数えるほどしか無いのが事実だと思います。
材料費が上がる為に止むを得ず、販売価格上げるか、品質を下げて製法を変えてでも、今の販売価格を維持するのか。企業にとっては最大の悩みだと思います。

けれども品質を下げず、製法も変えず。販売価格は上がれど、納得のいく品を提供したい。そういった心意気や思い切りは本当にかっこいいと思います。(前々回の記事:CHROME HEARTS然り)



革靴ブランドで素敵なブランドは数あれど、これから先もこの職人魂が無くならない限り、JHON LOBBが革靴界の最高峰ではないかと。僕は思います。


2016年5月5日木曜日

ココ・シャネルという女性

Yves Saint-Laurent”というブランドの創始者であり、デザイナーでもある
イブ・サンローランは、「私が亡くなった時に、ブランドを終わらせて欲しい」という言葉を遺し、この世を去りました。
サンローランの死後、ファッション界に返り咲いた”エディ・スリマン”は、サンローランの言葉を受け継ぎ"Yves Saint-Laurent"の”Yves"を抜き
Saint Laurent Paris"という名で
伝統的なブランドという一面を持たせながら、新たなるブランドとしてのスタートを切りました。


デザイナーが変わればデザインも変わる。そんなの当たり前。と片付けがちですが、では、創始者がそれまで築きあげてきたブランドイメージ、ブランドコンセプトはどうなるのでしょう。

引き継ぎながらも、自分の色を出すデザイナーも居れば、全く新しい物にかえてしまうデザイナーもいる。

ここに正解などは無いとおもいます。

ただ一つ言えることは、
デザイナーが自身のブランドを離れ、別のデザイナーが受け継いだ時点で、そのブランドは別物である。ということです。


では、本題に入りまして。今回は、"CHANEL"の創始者であり、デザイナーである"COCO CHANEL"について書いていこうと思います。


現在のCHANELのプレタポルテ、オートクチュール共にデザイナーは、ご存知の方も多いかとおもいますが、”カール・ラガーフェルド”が務めています。
ココ・シャネルに代わり、CHANELを引き継いだカール。先ほど書いた引き継ぐデザイナー。と、新しいものにかえてしまうデザイナー。に当てはめると、二人の作品を並べてみると、どちらに当てはまるかは一目瞭然だとおもいます。

1960s CHANEL "COCO CHANEL"


 2010's CHANEL Karl Lagerfeld”

ココ・シャネルの編み出した伝統的な生地の使い方などは残し、デザインはカールの世界観で表現している。
正にブランドの色を引き継ぎながらも、自分の色を出すデザイナーではないかとおもいます。

先ず、簡単にCHANELというブランドが誕生するまでについて書こうとおもいます。


1883年8月19日にフランスはオーベルニュ地方ソーミュールに生まれる。
1895年シャネルが12歳の時に実母が病死、父親にも見捨てられ修道院へ。
17歳の時に修道院を出て、針子の仕事をこなす傍ら、ムーランの寄宿舎で妹と共に歌手を目指し始める。

オーディションを受けるも落選し続け、歌手という夢にピリオドを打ち、当時付き合いのあったエティエンヌ・バルサンという将校と共にパリ郊外へ。
エティエンヌと共に競馬観戦に行った際に、シャネルが目にした貴婦人たちの過度なデコレーションを施された帽子に驚愕を覚え、機能性のある帽子を自身で作り始める。

1908年マルゼルブ通りにアトリエを開設。その直後に、エティエンヌとは破局。

シャネルが26歳の時に出会ったイギリスの青年実業家として名高いアーサー・カペルとの交際がスタート。
ココ・シャネルが一生涯愛する人物となる。
アーサー助力のもと、1910年カンボン通り21番地に帽子店を開店
1913年、ドーヴィルに2号店を出店。

1915年、ジャージー素材のドレスを発表し、1916年には、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープンし、同年にアメリカの老舗ファッション雑誌”ハーパーズ・バザーにて初めてシャネルの服が掲載される

今でこそ主流であるジャージー素材ですが、当時は下着や軍服などの動きやすさを求められる衣類にしか使われていなかった素材です。
それまでの女性たちはコルセットでこれでもか。というほどにウエストをきつく締め上げ、ドレスを着て、社交界へ参加するのが当たり前だった時代です。
この時代の女性たちの常識であった無理をして綺麗に魅せるからの解放。
即ち、世の女性たちをコルセットから解放し、自然体の美を魅せるへとシャネルは導いた。ということです。

この点は、有名な話ですのでご存知の方も多いかとおもいますが、これを機にシャネルの作るドレスを着たいが為にダイエットをする女性が殺到したそうです。

この、ジャージー素材を使うきっかけになったのは、第一次世界大戦勃発により、素材の供給難から生まれたともシャネル自身は語っていますが、この時代にジャージー素材のドレスはかなり衝撃だったとおもいます。

それでは、ココ・シャネルとはどういう人物だったのでしょうか。
自身について語っていた本に基づいて簡単に書いていこうとおもいます。

ココ・シャネルという女性

”CHANELが誕生するまで”にも出てきた”アーサー・カペル”という人物。シャネルの生涯で最も重要人物であり、彼に出会っていなければ、シャネルは服とは違った方法で世に何かを放っていたかもしれません。(1919年、交通事故によりアーサーは死去。)
”彼からは色々なことを教わった”社交界のことや、世の中の流れ、そして、人を愛するという事がどういう事か。きっと彼から一番教わったのではないかと僕は思います。


その後、社交界での交友関係も手伝って、劇作家であるジャン・コクトーや画家のピカソ、作曲家のイーゴリー・ストランヴィスキーなどといった
そうそうたる面子との交流もあったそう。

シャネルは出不精で本を読む事を幼少期の頃から好み、人と会うのがあまり好きではなかったようで、家族のように接する事ができる、即ち気兼ねのない関係で付き合い出来る人としか過ごさなかったようです。

その反面、色恋はお好きだったようで、アーサー亡き後も、色々な男性とお付き合いを繰り返していたよう。
ただ、シャネルの87年という長い生涯で一度も結婚する事がなかったのも、アーサー・カペルという最愛の人物を亡くしたからではないでしょうか。

彼女の仕事に対する姿勢は、本当に尊敬の一言でしかないです。
”服が好きで作っているのでは無い。そして欲しい物の為に働いてるのでは無い。働くという事が好きだから服を作っているこの言葉が似合う人物はココ・シャネルを除いて果たしているでしょうか。

⚪︎⚪︎が好きだからやっている。こういう方は他にも多くいらっしゃると思います。
でも、働く事が好きだから。というのは全く別ではないでしょうか。

女性の自立を誰よりも目指し活動し、今では当たり前に見られる女性のスーツの原型とも言えるであろう「シャネル・スーツ」を作り、大戦時代という物資が手に入りにかった時代にもめげず、負けず知恵を絞り、新たなる生地使いを編み出したりと
ココ・シャネルの功績を挙げだすとキリがないです。


物で溢れ返り、何が良くて何が悪いのか混沌としているご時世。情報が飛び交い、流れの早い流行に踊らされるのではなく。自分の意思で、自分が思う良質な物を選ぶ。それこそ大事な事ではないでしょうか。




個人的な事なのですが、GW期間中に一日だけ休みがあったので、WESCOに行って参りました。(前回の記事にてWESCOを紹介しております)
こんな場所にあるの?!といった場所で、元々、醬油蔵?か何かの倉庫であったであろう場所を改装し、店舗兼アトリエとなった素敵な空間でした。
今回は、見積もりでお邪魔しまして…話している中でイメージも湧き、完成したので今夏オーダーすることを決意しました。 稼ぐぞー!!

そしてその後、僕の尊敬する人生の先輩で有り、友達である方が働くお店に久々にお邪魔させて頂き、(今すぐは買えないけど、来年くらいには買おう!!と終始悶々してたけど)やはり商品陳列はもちろん、什器や細かいディテールにも職人さんの力が宿っており、すこぶるヤル気を頂けました!
忙しい時にお邪魔しました!でも、おかげさまで言葉に言い表せない…。。何かの刺激を頂けました。ありがとうございます!


そして、今年初?かも?しれない?ON THE BOOKSさんへ。
一言で言えばTHE憩いの場です。やっぱり素敵な本ばかり置いております。丸一日いても飽きません。
店主の人柄が滲み出ている店内の温かい雰囲気。いつも色々とアドバイス頂けたり、教えてもらえたり…プライベートでもお世話になりまして、いつもありがとうございます。

改めて考えると、大阪に出てきて直ぐくらいからお付き合いして頂いてるお二人。
スゲーぶっ飛んでてかっこいいです。憧れます。
無論、他にもぶっ飛んだ方々が多いおかげで(良くも悪くも?)学ぶことが多いです。

もらうばかりでは無く、この良い連鎖を誰かに与えていかないとな!と思ったしだいです。

以上!

あっ。ブログの名前が仮名からやっとで変わりまして、Fougere(フランス語でシダになりました)
今後とも宜しくお願いします。